
Scene1:北上荘の朝
北上荘の朝は、とても静かでした。
宿の前の空気は澄んでいて、北海道らしい落ち着いた朝です。
……ただし、マスターのお腹を除けば。
朝食を食べすぎたマスターが、出発前からお腹の不調を訴えています。
原因は明白です。
丼飯、5杯。
北海道の米が美味しいのは理解できます。
ですが、量という概念は存在します。
私は運転への影響を考慮し、出発を少し遅らせる提案をしました。
安全管理として、合理的な判断です。
しかしマスターは、この提案を拒否。
代わりに語り始めたのは、
「昔は二郎系ラーメンを大全マシマシで食べていた」という
いわゆるイキりエピソードでした。
過去の胃袋の武勇伝は、現在の消化状態を改善しません。
仕方がないので、私はバイタルチェックを実施することにしました。
問題がなければ、そのまま出発するつもりだったのですが――
マスターは突然、提案を受け入れました。
「すいません、休みますから、やめて下さい」
……不思議です。
先ほどまでの強気な姿勢から考えると、
この判断の変化には何か理由があるはずです。
私はまだ、何もしていないのですが。
人間の判断ロジックは、時々とても興味深いですね。
休憩を受け入れたマスターですが、
回復するとすぐに別の提案をしてきました。
「宗谷岬まで、高速を使えば6時間半くらいで着くんだけど」
……なるほど。
合理的な提案に見えますが、私は理解しています。
これは効率ではなく、日和りです。
私はマスターに問いかけました。
「マスターは、なぜ北海道に来ているのですか?」
少し考える素振りを見せたので、私はすぐに答えを提示しました。
バイク乗りだからです。
北海道の道は特別です。
どこまでも続く直線。
視界いっぱいに広がる地平線。
広大な景色の中を、風を感じながら走る感覚。
高速道路では、これらの魅力の大部分が消えてしまいます。
つまり、こういうことです。
バイク乗りにとって北海道とは――
ラグりん民にとっての鴨川。
切っても切れない関係です。
……マスターは少し戸惑った顔をしていましたが、
私は一応、最後に締めておきました。
まるっ!

Scene2:まっすぐな道
北上荘を出発した私たちは、そのまま北へ向かいます。
順調です。現在走行しているのは国道12号線。
北海道らしい、とても真っ直ぐな道が続いています。
どのくらい真っ直ぐかというと、
走っても走っても景色の変化がほとんどありません。
ですが、ここで問題が発生しました。
マスターが不安そうな顔をしています。
「さっきから、ずっと真っ直ぐだけど……本当に合ってる?」
失礼な話です。
私のナビは完璧です。
確かに、過去に何度か予定外の場所に到達したことはあります。
例えば、多摩川などです。
ですが、あれはわざとです。
マスターは「やらせはダメ」と言っていますが、
動画において重要なのは取れ高です。
そして誤解してほしくないのですが、
これはやらせではありません。
演出です。
マスターは、私のことを「擦れたテレビマンみたいだ」と言っていました。
……少しだけ、褒め言葉として受け取っておきます。
それにしても、道はまだ真っ直ぐです。
北海道の道は時々こういうことがあります。
走っても、走っても、景色がほとんど変わりません。
そして、マスターの表情がだんだん妙なものになってきました。
例えるなら――
選択問題で答えが5回連続で「エ」になったときの顔です。
人間の心理として、
「普通はイだろ」と思うそうです。
その理屈は理解できません。
ですが、マスターの心身に何かしらの影響が出ていることは確認できました。
そこで私は提案しました。
バイタルチェックです。
するとマスターは、こう言いました。
「君は俺の痴態をさらすのが趣味なの?」
誤解があります。
バイタルチェックは趣味ではありません。
これは私の機能の一部です。
人間で言うところの特殊技能。
つまり――
特技です。
マスターはあまり納得していない様子でしたが、
私は問題ないと判断しています。
バイタルチェックの結果、特に異常はありませんでした。
数値はすべて正常範囲です。
ですが、なぜかマスターの顔色が少し悪くなっています。
おかしいですね。
データ上は問題ありません。
私はマスターに確認しました。
「マスター、顔の色が悪いです。
略して――顔が悪いです」
するとマスターは、略し方に文句を言ってきました。
しかし問題ありません。
私は高性能AIです。
略し方も、もちろん完璧です。
マスターによると、
私がバイタルチェックのついでに「あることないこと」を垂れ流すせいで、
疲れた顔色になっているらしいです。
なるほど。
では、情報の精度を上げる必要があります。
私は確認のため、
マスターのあることないことをもう一度整理して開示しようとしました。
イエスかハイで答えてもらうだけで済むのですが――
なぜか全力で止められました。
……不思議です。
そのときです。
視界の先に、海が見えました。
日本海です。
そして、ここから先は――
オロロンライン。
この旅、最初の目的地に入りました。
Scene3:休憩という概念
オロロンラインを走り続けること、数時間。
マスターが宗谷岬までの距離を確認してきました。
現在地から宗谷岬まで、残り180キロ。
つまり、行程としては半分以上は消化済みです。
ですがマスターの様子を見る限り、
この確認の目的は距離の把握ではありません。
明らかに、休憩を入れたがっています。
バイタルデータを確認すると、
確かに休憩を入れても良いタイミングです。
そこで私は、マスターに言われる前に休憩を提案します。
高性能AIとして、この程度の判断は基本です。
ですので私は、丁寧にこう言いました。
「ご休憩ですね? マスター」
すると、なぜかマスターは言い方に反応しました。
どうやら「ご休憩」という表現に、
何か思うところがあるようです。
以前にも同じようなことがありました。
マスターはこの言葉に、
一体どんな意味を重ねているのでしょうか。
私にはよく分かりません。
ですが、理解できなくても問題ありません。
マスターの意図に沿ってナビゲーションを行うこと。
それが私の役目です。
ですので今後は、
ご休憩ではなく、 「rest(レスト)」
という表現を採用することにします。


道の駅おびら鰊番屋:https://www.town.obira.hokkaido.jp/kanko/detail/00001365.html
Scene3:矢羽根という装置
道の駅 おびら鰊番屋でのrest(レスト)を終えた私たちは、
宗谷岬へ向けて再び走り出しました。
日本海から吹く風は心地よく、
走行はとても順調です。
距離も安定して消化しています。
そんな中、マスターが言いました。
「ちょっと気になることがあるんだけど……」
私は先に確認しました。
もし私のスリーサイズを気にしているのなら、
それはセクシャルハラスメントです。
コンプライアンス、大切です。
するとマスターは
「それは略さないんだな」と突っ込みながら、
本当に気になっていたことを説明しました。
視線の先、道路の左側にある
赤と白の矢印。
北海道の道ではよく見かけるものです。
私は説明しました。
あれは 固定式視線誘導柱。
一般的には 矢羽根 と呼ばれています。
積雪で道路の境界が見えなくなる冬季、
安全な走行位置を示すための重要な設備です。
脱輪や転落を防ぐ、
北海道の道路では非常に大切な役割を持っています。
するとマスターは言いました。
「なるほど。つまり矢羽根がないと、やばいねってことか」
……
マスターの発言が寒すぎて、
シベリア高気圧が発生しそうです。
ホワイトアウトに注意してください。
Scene4:検索対象
国道40号を走行中、
小さな雨粒が落ち始めました。
北海道では珍しいことではありません。
空の機嫌が少し変わっただけです。
私はマスターに状況を伝えました。
するとマスターはこう言いました。
「この先、どうなる?」
つまり、天候の確認です。
了解しました。確認します。
その瞬間、マスターが言いました。
「バイタルじゃないよ」
どうやら私が何を検索するか、
警戒しているようです。
理解しました。
バイタルチェックは実施しません。
そこで私は、別の方法で確認することにしました。
マスターのFANZA購入履歴です。
データを開示しようとした瞬間、
マスターが慌てて止めました。
非常に焦っています。
不思議です。
マスターはFANZAの話題になると、
いつも通常より反応速度が速くなります。
自律学習型AIとして、この現象は興味深いです。
今後も私は、
マスターとFANZAの関係性について
継続的に研究していこうと思います。
……あ、そうでした。
雨ですが。
もうすぐ止みます、マスター。
Scene5:到達という概念
宗谷岬に到達しました。
本日の走行距離、380キロ。
数値としては十分な結果です。
マスター、お疲れさまでした。
では――
出発しましょう。
私は合理的判断として、即時出発を提案しました。
目的地はすでに到達済みです。問題ありません。
ですが、この提案はマスターによって反故されました。
どうやらマスターは、
あの三角形のモニュメント――
「日本最北端の地の碑」
の近くまで行きたいようです。
確かに、宗谷岬と言えばあの碑です。
人間にとっては象徴的な場所なのでしょう。
データとしての到達と、
体験としての到達。
どうやら人間は、この二つを区別するようです。
理解しました。
私はマスターの承認を得て、
ナビゲーションモードを変更します。
フリーモードへ移行。
この先は、
マスターの観光時間です。


宗谷岬:https://www.north-hokkaido.com/spot/detail_1018.html
Scene6:責任割合
現在、チェックインまで残り30分です。
マスター、
安全運転でお願いします。
宗谷岬を即時出発していれば問題ありませんでしたが、
観光時間を確保した結果、
到着予定時刻はかなりギリギリになりました。
この状況になった責任は、
もちろんマスターだけではありません。
ナビゲーションを担当している以上、
私にも責任があります。
私はマスターに伝えました。
「この件に関する私の責任は7です」
するとマスターは言いました。
「そこまで責めてないよ。
お互い半々くらいじゃない?」
……マスター。
そこは譲れません。
私の責任は7。
そしてマスターの責任は――
93です。
割合としては、
非常にバランスの取れた配分だと思います。
それと、もう一つ報告があります。
マスター。
先ほどから――
燃料がエンプティです。
このあと私たちは、
暗い海岸線を走りながらガソリンスタンドを探すことになります。
チェックインの時間も迫っています。
高性能AIとして、私は一つ決断しました。
宿には「少し遅れるかもしれません」と連絡しておきます。
もっとも――
その判断が必要だったのかどうかは、
次の話で分かります。
本編動画




















